読書「裁かれた罪 裁けなかった『こころ』 17歳の自閉症裁判」
先日、ある若い人に広汎性発達障害者の犯罪のことを知りたいので参考になる本を教えてほしいと言われた。
その時に思いうかんだのは「自閉症裁判−レッサーパンダ帽男の『罪と罰』」だった。
そのあと地元の図書館に立ち寄ったところ目にはいったのはこの本だった。
私は仕事の関係もあってたまたま広汎性発達障害のかたを知っている。
また偶然であるが犯罪加害者の家族の方と話す機会があった。
そして先日「殺された側の論理」という本を読んでいた。
もう何をどう考えたらいいのか・・・頭の中ぐしゃぐしゃ。
しかし思ったことをここに2点書いておきたい。
一つは少年(被告人)が刑をうけるとするならば、それに罰という意味をもたせるのならば、
その前提となる土台をつくる作業が必要だということである。
そして、それが更生する上で必要なこととしてだけ考えられてしまっていることがどうなのか疑問である。
刑務所のようなところは少年にとってラクであると裁判中に証人である精神科医は述べている。
決められた枠の中で生活をすることは大変であるが、障害ゆえに大変にならない可能性を示していると思う。
罪を償うということが刑罰をうけるという行為にとってかわってしまっている状況では
刑罰をうけても罪を償うことに直結はしないはずである。
前提となる土台をつくる作業と少年が社会にもどるために
身につけておかなければならないことをする作業は中身の点で重なると思う。
もう一つは治療というのは何をさすのかわからないということを書いておきたい。
確かに人を殺め、傷害をおわせたこと、その影響を考えると刑罰や更生教育といったことが必要だ。
そのことを治療というのだろうか。ここがわからないところである。
広汎性発達障害の治療とはなんだろう?
もちろん二次的な症状に薬物治療は必要である。
しかし事象の捉え方そのものに障害があるとするならばどんな治療があるのだろうか。
本人がそう感じる、捉えることを否定し続けることにはならないだろうか。
もしそうだとしたら、人が否定され続けることとはどういうことなのかを考えなくていいのだろうか。
「私が思う、感じる」ことが障害なのだと言われたら、その人はどうしたらいいのだろう。
この本の終わりに著者は「受け皿」の整備ということを論じている。
もちろんそれも大切なことである。
ただ私は広汎性発達障害に限らず、
障害を障害として受けとめることを障害当事者に強いる社会にこそ障害があると思う。
つまり「受け皿」の整備というのはノーマライゼーションに他ならないのではないかと考えるのである。